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教育・福祉・
労働
大分県議会議員 原田たかし
プロフィール
経 歴
【名 前】
原 田 孝 司(はらだ たかし)
1959年3月生まれ(現在64歳)
【出身地】
別府市光町(旧栄区)
【現住所】
別府市鶴見町
【家 族】
妻と娘2人(結婚して独立)と愛犬1匹
【略 歴】
1971年 3月 別府市立西小学校卒業
1974年 3月 別府市立山の手中学校卒業
1977年 3月 大分県立別府鶴見丘高校卒業(29回生)
1983年 3月 大分大学教育学部教育学科卒業
1983年 4月 小学校教諭として玖珠郡や別府市の小学校に勤務
勤務した学校は、直川村立直川小学校、別府市立大平山小学校、九重町立東飯田小学校、玖珠町立日出生小学校小野原分校、九重町立野上小学校、別府市立南小学校、同 青山小学校、同 鶴見小学校
2006年10月 別府市立鶴見小学校を最後に退職
2007年 4月 別府市議会議員選挙にて初当選
2011年 4月 大分県議会議員選挙(別府市選挙区)にて初当選
2015年 4月 大分県議会議員選挙にて2期目の当選
2019年 4月 大分県議会議員選挙にて3期目の当選
2023年 4月 大分県議会議員選挙にて4期目の当選
自治体議員選挙に出る前には、教職員組合役員や労働団体の集合体である連合大分別杵速見地域協議会(現在は、国東地協と統合し、2011年12月より連合大分東部地域協議会と名称変更しています)の事務局長や別府地区平和運動センターの役員を務めていました。
【議員歴】
大分県議会 議員(11年度~現在4期目)
同 文教警察委員会 委員(11~12・15・21年度)
同 文教警察委員会 副委員長(12年度)
同 福祉保健生活環境委員会 委員(13~14・17年度)
同 商工労働企業委員会 委員(16年度)
同 福祉保健生活環境委員会 委員長(17年度)
同 総務企画委員会 委員(18年度・22年度)
同 農林水産委員会 委員(19年度)
同 土木建築委員会 委員(20年度・23年度~現在)
同 議会運営委員会 委員(13・19年度)
同 政策検討協議会 副会長(23年度~現在)
別府市議会 議員(07~10年度の1期)
【役職歴】
大分県観光振興議員連盟 副会長(11年度~現在)
大分県教職員組合 特別執行委員(07年度~現在)
大分県監査委員会 監査委員[議会選出](20年度)
大分県議会・県民クラブ会派 副幹事長、政務調査局長、広報局長など
(公財)別府霊園 理事(19年度~現在)
大分県日中友好協会 副会長(23年度~現在)
別府市日中友好協会 会長(23年度~現在)
【政党関係】
立憲民主党大分県総支部連合会 幹事長(23年度~現在)
同 副代表(22年度)
同 幹事長代行(20~21年度)
同 3区総支部幹事長(20年度~現在)
社会民主党大分県連合 副代表(11~18年度)
緑の党 サポーター(14年度~現在)
3つの約束
子どもたちが「生まれてきてよかった」、高齢者の方々が「長生きしてよかった」と思える社会を実現するために、原田孝司は3つの約束をします。
【教 育】
子どもたちが夢と希望を持てる豊かな未来を守るために、教育環境の充実に努力します
・子どもたちが豊かに楽しく学べる環境づくり
・教育条件の整備と教育予算の増額
・30人以下学級の実現
【福 祉】
子どもや高齢者など社会的弱者の立場に立った福祉政策の推進に努力します
・児童虐待の防止や子育て支援
・高齢者福祉の充実
・「障がい」がある人たちへの支援
・様々な差別の防止と解消
【労 働】
市民の大多数である勤労者の立場に立った政策の推進に努力します
・安定した雇用環境づくり
・臨時・非常勤職員等の非正規職員の勤務諸条件の改善
・ワークライフバランスの実現
折り鶴に込めた願い
原田孝司のシンボルマークは平和を象徴する折り鶴です。
背景には、
教育・福祉・労働
を表現する虹がかかっています。
私の思い
~勤労者の思いを活かした政策の実現に向けて~
私は別府市の光町に生まれ、西小学校、山の手中学校で学びました。中学生になったある日の下校時、友だちと一緒に帰っていると職業安定所(現ハローワーク)から父が出てくるのを偶然見かけました。「なぜ、こんなところに」と思いましたが、すぐに「父は失業したんだ」と理解しました。
私の父は、旅館の番頭をしていました。番頭には内番頭と外番頭があり、内番頭は旅館内でいろいろな仕事を受け持ち、外番頭はお客さんを旅館に案内します。父は外番頭で、別府駅に降りてくるお客さんに旅館を勧め案内していました。給与の大部分は歩合によるもので、収入は安定していませんでした。別府に観光客が押し寄せていた時代は良かったようですが、観光客の低迷とともに、旅館の経営も厳しくなっていたようです。父は旅館を解雇され、職安に通っていたのです。
家に帰り、父を見かけたことを話そうかと迷ったのですが、「父が言うまで黙っておこう」と思いました。しかし、1週間、2週間が過ぎても父も母も何も言いません。子どもたちに心配をかけたくなかったのでしょう。
別府鶴見丘高校、そして大分大学を卒業して教職に就いたとき、父と母は本当に喜んでいました。私の幼い頃からの夢であった教職に就くことができたこととともに、公務員という「安定した職業」に就いたという点でも喜んでいたのだと思います。
そういった家庭で育ったものですから、10数年前に市議会議員選挙に出るという話をしたときには、「せっかく先生になったのに、絶対に賛成できない。」と猛反対でした。
私自身も悩み抜き、重苦しい日々が流れる中、母が脳溢血で倒れたのです。「母が倒れたのは、私が市議選立候補の件で心配させたからじゃないか」と考え、立候補の話を断ろうとも思いました。
母が緊急の手当をしていたときに、病院の待合室で父と二人きりになりました。重苦しい雰囲気の中、三十数年前に職安から出てきた父を見かけたことを話しました。
「そうか、あの時おまえ見てたのか。俺にもお前たちのような組合があればクビにならずにすんだかもな。」
「働く人が、経営者の都合で簡単に解雇されるような社会を変えたいんだ。」
「お前一人で変えることなんてできないだろうが。」
「一人では変えられないと思う。でも、俺は一人じゃない。支えてくれる仲間がいる。共に闘ってくれる仲間がいる。仲間と一緒に訴え、少しずつでも実現させていきたい。そのために選挙に出ようと思う。」
長い沈黙の後、父は一言「わかった、がんばれ。」と言ってくれました。
しかしながら、市議選の年の4月になり告示を迎え、選挙車が回り始めて3日目の火曜日に母は再び倒れ、医師から「もってあと2日です。」と告げられました。
選挙をしている息子に迷惑をかけなくなかったのか、母は選挙の最終日まで頑張り抜きました。ファイナル集会が終わった後、妻と母の病室に泊まりました。それが母の最後の夜になると感じていました。
投票日の朝、母は家族に看取られ静かに逝きました。当選の報を届ける前だったのは残念でしたが、私とともに最後まで頑張ってくれました。父の失業を乗り越え、私たちを育ててくれた強くやさしい母でした。
近年、「リストラ」という、経営側にとって当たり前のような言葉で多くの働く人たちが「首切り」をされています。
そして今日もハローワークには、多くの方々が職を求め詰めかけています。その前を通る度に、中学生のときのことが思い出されて胸がしめつけられます。失業を余儀なくされた方々、そしてその家族の方々は本当につらい思いをされていることと思います。そのような家族を少しでもなくしていくことは政治の役割だと思います。
私にとって組合運動は運動というよりも生き方そのものです。市民の多くは勤労者です。だからこそ、勤労者の思いを活かした政策が今こそ必要な時代だと考えています。
私一人では微力です。同じ志を持つ仲間の議員と連帯しながら、その思いを実現させていきます。
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